押し入れ

いい隙間を見つけると、胸が躍った。

──「素敵な圧迫」呉勝浩

 

 

 呉勝浩という作家の名前は以前から知っていたが、その作品を読んだことはなかった。しかしたまたまこの本の存在を知り、書店で開いてみた。冒頭で引用した表題作の一行目を目にして、即座に買う事を決めた。

 

 読み終えてみれば粒揃いの短編集で非常に満足した。やはり気に入ったのは表題作。幼少期から押し入れの中で布団に圧迫される感覚を快楽とし、一人暮らしを始めてからは中身のない冷蔵庫の中に体を折り畳んで入り込む語り手が社会生活の中で発露する異常性を起因とする物語は強い印象を残した。

 だがこの記事で詳しく本書の感想を述べるわけではない。今回書くのは「共感」だ。

 

 自分も子供の時から狭いところが好きだった。小学校低学年まではリビングのソファの下に潜り込むのが好きだった。別にそこに何かを隠していたりかくれんぼをしているわけではない。ただその狭い空間が好きだった。ソファの底面で光が遮られ、手足を満足に伸ばす事も難しく、なにより圧迫感のある空間。しかし同時に、広い空間特有の無防備さや落ち着かなさのない、必要十分なスペースは自分の背丈が大きくなって物理的に潜り込む事が出来なくなるまで憩いの空間だった。

 大切なのはこの「必要十分」という事である。意味なく広い空間は勿論だが、狭すぎてもいけない。人から強制された狭さも良くない。自らの意思で、自らの手と足を広げればそれだけで壁に当たってしまうような空間がベストだ。

 こうして書くとミニマリストのように思われるかもしれないが、別にそんな事はない。というかむしろ雑然とした状態を好む。乱雑に配置された好きなものに囲まれ、あらゆるものに移動せずに手が届く、小さな、しかし堅固な城。巨大な城はそれだけ崩せる隙も多いが、狭い空間に抜け穴はない。

 自分を構成するもの以外が入る余地のない自分のためだけの場所。それが最も自分の落ち着く場所だった。

 

 ソファの下に入れなくなって次に見つけ出した安息の地はお手洗いだった。元々腹の調子が崩れやすいのもあるが、不必要な広さのない清潔な(これは重要)洋式トイレの上でぼーっとする事は用を足す以上に落ち着く。別にトイレに座りながら何かゲームをしたり本を読んだりするわけではない。ただぼーっとする。一畳分あるかないかといった、決して自由とは言えない空間で気ままに時間を過ごす。それだけで良かった。

 

 だからドラえもんが押し入れで寝ているのを見た時は心底憧れた。背丈にぴったりの空間で、手を伸ばせば必要なものに手が届く。完全に独立し、完結した自分だけの場所。それは今でも自分にとって理想の空間であり、正直ドラえもんのどのひみつ道具よりも、あの押し入れの中の生活が羨ましかった。

 だが実際に押し入れで寝て起きて生活をする事は難しい。やはりどうしたって不便だし、健全な暮らしとは良い難い。憧れはあくまでも憧れであり、届かないからこその美しさなのだろうと思っていた。

 

 しかし、ネットカフェの鍵付き個室を知った時その理想の空間は急速に近づいた。え、そんな近場? と思われるかもしれないが、今年に入るまで自分はネカフェを利用した事がなかったのである。

 適当に時間を潰すためにネカフェの個室に初めて入った時、これだ! となった。床はマットで好きに寝転がる事が出来、ネット環境は勿論完備。部屋を出ればジュースを好きに飲んだり漫画を読む事が出来る。

 しかし何よりも特筆すべきはその「広くなさ」だ。まさしく大の大人にとっての必要十分の広さ、あるいは狭さ。寝転がる事は出来るが、大の字になると少し窮屈。人がいる空間としての機能を過不足なく備えた、ただ気ままに時間を潰すためだけの領域は自分がずっと求めていたものだった。大袈裟だと笑われる事を承知で書くが、ここが理想郷だとかなり本気で思った。

 

 ネット環境完備、ジュースも漫画もあって最高! と書いたが、実を言うとそれらを享受することをメインとしているわけではない。いや、ネカフェを利用し始めてすぐはその分かりやすい魅力に心を奪われていたが、何度か時間潰しに足を運ぶにつれてそこが一番のポイントでない事を知る。最も素晴らしい点はやはりその狭さなのだ。これはオープン席では味わえない。すぐに漫画やジュースを取りに行けるメリットはあるが、オープン席は開放感があり、さらに人の視線がある。冒頭に引用した「素敵な圧迫」では他者からの視線も圧迫として快楽に変換されていたが、自分にとってはどちらかというと脅「迫」のようなものであり、人がうろつき視線が飛び交う空間というだけで正直快適とは言い難い。

 半個室のような形のボックス席もかなり落ち着く。ただやはり、横になれるという個室の利点は計り知れない。

 

 いつか自分の家、自分の部屋を持ったらどんな部屋にしようか。そんな事をよく考えるが、その最終形はいつも一つだ。

 ネットカフェの個室くらいの大きさのマット床のスペースで掛け布団を敷いて寝る。その周囲では大量の本と備蓄食料が城壁を構築している。

 それが自分にとっての、憧れの押し入れだ。