2024.2.2

家電狂の詩

 

 

 一歩も外に出ていないからせめて空気でもと窓を開ければ月がとても低かった。月の裏側では腐敗しない為冷蔵庫はお役御免を言い渡され ブウウ――――――ンンンと唸りながら衛星軌道上を羽ばたき出した。お捻り代わりのカエルの雨は寿司屋も羨む抜群の鮮度。

 パンタグラフ役の頭上の輪っかは トポロジーの変形で今は穴の空いた歯のインプラントに変わっている。能動的虫歯保持者に無線で送られる サメ怪獣の着ぐるみのエキス。 

 あなたは天使なの? 

 ウォシュレットを一度もした事がないのならそれで良いけれど。

 

冷凍庫内のローストビーフ用の肉塊に貼られた あんこと書かれた付箋。

2024.1.30から1.31にかけて

四角でない私は四角の部屋の中にいて 四角の部屋は四角の家の中に
あって 四角の家が建つ世界は揃わないルービックキューブだから一
度バラバラにした方がいい。散らばった無数の四角は放っておくとま
た凹みに収まりだす。四角でないものは再編成に組み込まれない。や
わらかい私は仕方なくへばりついている。すきっ歯の少女達は歯抜け
のリズムで回る回る回る。幽世の角張ったダンス。歯車の女神の彼女
ら曰く「再編成中の世界ではなにも確定していない」らしい。あなた
達は四角じゃないのにどうして世界に収まっているのかと聞くと「擦
り減って角の取れた円が核にあるから」だから噛み合ってクルクルと
回る。「世界の区画整理終了はもう間も無く」はぐれ四角は 入り込
める場所を探して飛び交っている。そこにいようとするだけでも四角
はその質量をエネルギーに変えて頑張っている。ルービックキューブ
の世界が揃わないのは どこかの四角が全部エネルギーになってしま
ったから。だから私は四角が少しでも休めるように 彼らを覆う布団
になろう。四角でない私は 四角の寝台の上にいたのだから。大丈夫
だ 私はやわらかい。暖かくて良い匂いかまでは 分からないけれど。

2024.1.29

 ある日の夜半の帰り道、そういえばコンビニに寄るんだったの気づきの「あ」と共に振り返り、すれ違った人が「い」。歩き去りながら「うーう」と言われ、順番抜かしへの微かな咎めも込めて背中合わせの「え、お」で交信終了。そのまま続けていれば「ん」超えて「Z」超えて、意味のない一文字を片っ端から送り合っていたか。
 いわば地球とボイジャーみたく、途方もない距離を超えて私達は単体では意味をなさない言葉のラリーを繰り返していたか。あるいは矢文の応酬。言葉限定で無重力の冬では、真っ直ぐにさえ放てれば必ず届く(そういえばゴルゴ13に、宇宙空間で弓矢を放つ回があった)。見ず知らずの私達は遠ざかりながらも、船の上の扇を射抜くように狙い澄まして一文字を撃ち合う。
 うろんなやり取りに夢中になっている内に地球にさらばして戦士が起動し死の星が弱点を突かれている気もするが、関係なく弓を引き絞っては放ち、を繰り返す。いつの間にか届く文字は見た事の無いものになっていて、何となく、さっきからずっと話しかけてくるこの頭足類の言葉に形を与えたらこんな風になる気がした(煩わしいと払おうとしたらもう遥か彼方だった)。
 えてして、こういう勝手な印象から音は文字という形を与えられてきたのだろう。かく言う私の文字も知らない間に知らない体系のものになっているはずで、意味を問われれば言葉要らずの肩をすくめるジェスチャーしか返せない。
 お疲れ様ですいつかの言語学者、という有意味な文字列を発する暇もないほどに、私達は無意味な一文字を放ち続ける。

2024.1.26

 川上未映子を読んでいると非常に肉体がそれぞれのパーツとして意識されるようになって、そういう時必ず踵が気になる。

 正中線以外にもいくつか私には無条件に急所だと感じられる体の部位があって、特に際立っているのが踵(他に鎖骨、指の間など)。急所というか、何というかすごく脆くて頼りなく、よいしょと階段を一段飛ばしでもしようものならパクッと縦に裂けてしまいそうだと5歳くらいの時からずっと思っている。踵からパクッペリペリと裂けていき、かろうじて足①に繋がっているだけの足②がダランと垂れ下がるのだ。こんな考えがずっと頭から離れなくて、靴擦れで皮膚が剥けた時なんかはもの凄く気になる。怖いわけでもなく、何というかドキドキするのだ。

 じゃあその裂け目から何がこぼれ出てくるのかと言えば、これがまだ何も分かっていない。踵が裂けるんじゃないかという強迫観念と同じくらい頭の中で算盤弾いて考えているのにも関わらず。それが柔らかいのか固いのか、光っているのかそうでないか、海派か川派かも分からない。まったくのダークホースというわけで、それが私の人生最後に外から差してくるのか、京都競馬場にハズレ馬券の雪を降らせる気かと恐れ慄いている。嘘、それが全部(本当の意味での全部)ひっくり返して掻き回してくれたなら、私はだははと歯のない口で笑うだろう。

2024.1.25

 大学生活最後のレポートを提出してきた。


  中高大と10年間のエスカレーター方式で何となく運ばれてきた大学の正門から続く坂道を最寄駅へと下る。入り浸るぞと意気込んだ大学図書館の地下書庫には結局卒論に必要なものを参照しに行くだけで、知見が広がる事はなかった(私がここを行きつけにしたいと思った店は往々にしてたまにしか行かなくなる。たこ焼き屋、ヤニで壁が黄ばんだ喫茶店、あともう2つくらい)。地下書庫は下に行けば行くほど蔵書が少なくなり、坂道を下り切った私が立つこの地点と海抜が同じくらいの地下18階あたり、そこには地下1階に比べればほんっの少しの本しかなくて、背表紙を追えば私が今まで読んできたものばかりだ。けれど1冊くらいは見たことの無い本もあるはずで、それが最寄駅から発車する電車を私好みに動かせる裏操縦マニュアルだと良いな、なんて思っている。私のネクロノミコン

連句(2024.1.22~2024.1.24)

 蚊にでも刺されたかしらん、と思って背中を掻き掻き、どうも筋肉の収縮を越えた硬さだと鏡で確かめてみれば、それはタケノコだった。いつかこれが立派な青竹になって中からお姫様が僕の背に生まれ落ちたのなら、彼女を捕まえた天の使者が帰る先は生物教師の解剖台の上が良い。彼女は授業で解剖した鳥もイカもアルコールランプの上のフライパンで焼いて食べた(前者は塩コショウ、後者は醤油で)。僕から生まれたかぐや姫にもメスを向けて彼女は美味しく頂くだろう。プルンとした胃の中でかぐや姫(私が作りました! の生産者シール付き)は花を咲かせ、生物教師もろとも茶色く枯れる。そこからまたいつか生えた竹を槍にして僕は京都駅大階段を駆け上るのだ。頂上にある池にクモの糸を垂らす釈迦の胸にその穂先を突き立てる為に。金メッキ仕立ての手から糸は離れ、地獄に真っ逆さまの生物教師の悲鳴が池から聞こえる。ほとりを歩くクモに明日はもっと良い日になるよね、と尋ねれば、坂道から踏切へジャンプするのではなく自転車で江ノ電と並走して時をかけてきた筒井康隆がヘケと言った。ユーミンにはまだ早い。

 

 秘技頭蓋骨抜きを施されたハトは軽くなった頭から上昇志向をほとばしらせて、太陽黒点こそがタンホイザーゲートだと信じて羽ばたく。抜かれた頭蓋骨は唐揚げにされて胸に穴の開いた男に振る舞われる。自称魂喪失者はそれを食べれば胸に蓋が出来ると信じてパクつくが、その甲斐なく穴からはビールが零れる。実際には、有史以前から虚実の淡いを飛んでいる鳥が男の魂を蹴落として托卵していたというオチに過ぎず、既にその卵も孵化して残されたものは穴だけだった。蠕動する桃色の羽で空間を前から後ろに押し流すその永久保存版の鳥は、スシローのレーンの周波数に同調したもののみ認識可能なチャンネルで羽ばたいている為、180円以下のネタたちにはやがて来る千円王国への導として崇められている(黒色の皿には別種の信仰が質量となって積載されている分、僅かにその周波数が乱れてしまっている)。

 

 苔むした頭の教師は黒髪丸眼鏡乙女学の権威だ。牛乳瓶の底のようなレンズの眼鏡をかけた天照大神が表紙に描かれた教科書を開き、今日はフレームを極限まで細くした時に生じるレンズを支えているがこの世に存在しない無限ゼロの縁の行方について熱弁している。
 私はその答えについて既に知っていて、それはIQ0(=∞)に至れないことを嘆くIQ2のサボテンとの対話の中で辿り着いたものだった。けれど私には彼のような針がないので、どうすれば私たちを隔てる0.02mmWワールドサイズのこの膜を破れるのかしらという疑問で頭がいっぱいだった。
 サボテンには斬魄刀みたいな名前が多いのよと言うと、僕は卍解出来るよとあっけらかんと答えて彼はその歴史に名を刻みに尸魂界に旅立ち、膜と私だけが残った。こんなの「砕けろ」という呪いの言葉まで取られちゃって、もうね。


 サボテンには本当に白竜丸という品種があります。これが卍解すると白竜丸綴化になります。これはすべて本当の事です。

押し入れ

いい隙間を見つけると、胸が躍った。

──「素敵な圧迫」呉勝浩

 

 

 呉勝浩という作家の名前は以前から知っていたが、その作品を読んだことはなかった。しかしたまたまこの本の存在を知り、書店で開いてみた。冒頭で引用した表題作の一行目を目にして、即座に買う事を決めた。

 

 読み終えてみれば粒揃いの短編集で非常に満足した。やはり気に入ったのは表題作。幼少期から押し入れの中で布団に圧迫される感覚を快楽とし、一人暮らしを始めてからは中身のない冷蔵庫の中に体を折り畳んで入り込む語り手が社会生活の中で発露する異常性を起因とする物語は強い印象を残した。

 だがこの記事で詳しく本書の感想を述べるわけではない。今回書くのは「共感」だ。

 

 自分も子供の時から狭いところが好きだった。小学校低学年まではリビングのソファの下に潜り込むのが好きだった。別にそこに何かを隠していたりかくれんぼをしているわけではない。ただその狭い空間が好きだった。ソファの底面で光が遮られ、手足を満足に伸ばす事も難しく、なにより圧迫感のある空間。しかし同時に、広い空間特有の無防備さや落ち着かなさのない、必要十分なスペースは自分の背丈が大きくなって物理的に潜り込む事が出来なくなるまで憩いの空間だった。

 大切なのはこの「必要十分」という事である。意味なく広い空間は勿論だが、狭すぎてもいけない。人から強制された狭さも良くない。自らの意思で、自らの手と足を広げればそれだけで壁に当たってしまうような空間がベストだ。

 こうして書くとミニマリストのように思われるかもしれないが、別にそんな事はない。というかむしろ雑然とした状態を好む。乱雑に配置された好きなものに囲まれ、あらゆるものに移動せずに手が届く、小さな、しかし堅固な城。巨大な城はそれだけ崩せる隙も多いが、狭い空間に抜け穴はない。

 自分を構成するもの以外が入る余地のない自分のためだけの場所。それが最も自分の落ち着く場所だった。

 

 ソファの下に入れなくなって次に見つけ出した安息の地はお手洗いだった。元々腹の調子が崩れやすいのもあるが、不必要な広さのない清潔な(これは重要)洋式トイレの上でぼーっとする事は用を足す以上に落ち着く。別にトイレに座りながら何かゲームをしたり本を読んだりするわけではない。ただぼーっとする。一畳分あるかないかといった、決して自由とは言えない空間で気ままに時間を過ごす。それだけで良かった。

 

 だからドラえもんが押し入れで寝ているのを見た時は心底憧れた。背丈にぴったりの空間で、手を伸ばせば必要なものに手が届く。完全に独立し、完結した自分だけの場所。それは今でも自分にとって理想の空間であり、正直ドラえもんのどのひみつ道具よりも、あの押し入れの中の生活が羨ましかった。

 だが実際に押し入れで寝て起きて生活をする事は難しい。やはりどうしたって不便だし、健全な暮らしとは良い難い。憧れはあくまでも憧れであり、届かないからこその美しさなのだろうと思っていた。

 

 しかし、ネットカフェの鍵付き個室を知った時その理想の空間は急速に近づいた。え、そんな近場? と思われるかもしれないが、今年に入るまで自分はネカフェを利用した事がなかったのである。

 適当に時間を潰すためにネカフェの個室に初めて入った時、これだ! となった。床はマットで好きに寝転がる事が出来、ネット環境は勿論完備。部屋を出ればジュースを好きに飲んだり漫画を読む事が出来る。

 しかし何よりも特筆すべきはその「広くなさ」だ。まさしく大の大人にとっての必要十分の広さ、あるいは狭さ。寝転がる事は出来るが、大の字になると少し窮屈。人がいる空間としての機能を過不足なく備えた、ただ気ままに時間を潰すためだけの領域は自分がずっと求めていたものだった。大袈裟だと笑われる事を承知で書くが、ここが理想郷だとかなり本気で思った。

 

 ネット環境完備、ジュースも漫画もあって最高! と書いたが、実を言うとそれらを享受することをメインとしているわけではない。いや、ネカフェを利用し始めてすぐはその分かりやすい魅力に心を奪われていたが、何度か時間潰しに足を運ぶにつれてそこが一番のポイントでない事を知る。最も素晴らしい点はやはりその狭さなのだ。これはオープン席では味わえない。すぐに漫画やジュースを取りに行けるメリットはあるが、オープン席は開放感があり、さらに人の視線がある。冒頭に引用した「素敵な圧迫」では他者からの視線も圧迫として快楽に変換されていたが、自分にとってはどちらかというと脅「迫」のようなものであり、人がうろつき視線が飛び交う空間というだけで正直快適とは言い難い。

 半個室のような形のボックス席もかなり落ち着く。ただやはり、横になれるという個室の利点は計り知れない。

 

 いつか自分の家、自分の部屋を持ったらどんな部屋にしようか。そんな事をよく考えるが、その最終形はいつも一つだ。

 ネットカフェの個室くらいの大きさのマット床のスペースで掛け布団を敷いて寝る。その周囲では大量の本と備蓄食料が城壁を構築している。

 それが自分にとっての、憧れの押し入れだ。